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5月7日8日、新宿の仲間たちと宮城県登米・石巻、福島県南相馬へ【東北キャラバン報告】 [その他]

ボクのことを知ってほしい。キミのことももっと知りたい。
テレビ、新聞、インターネット。でも、それだけじゃ足りないんだ。
だから『ここ』で、キミと出会えたらいいな。

I want you to know about me. I also want to know more about you.
Whether it’s the TV, newspapers or the Internet, I can’t get enough of you.
That’s why it would be great if I can meet you ‘HERE.’

歌舞伎町の商店街フラッグに書かれいるこの文章は、私自身の思想でもあるのです。歌舞伎町の様な繁華街は、そこで人が人とリアルに繋がれるツールであり、繋がりたい時には、その「場」を提供する、そこにこのような街の存在意義がある。だが、一方で、それは歌舞伎町の事だけを差すわけではない。以前「風のかたみ」という映画のロケで東北に長く滞在したこともある。そこで、知合った女性にいろんな案内をしてもらった。スキーをやっていたから、蔵王にもちょくちょく行っていた。松島の海岸に車を下し、波の音を聞きながら一晩過ごした日もある。東日本大震災の被災は、我々日本人全員の共有財産でもある、美しい「東北」という場所に深い深い傷跡を与えた。だが、人として、日常目にするテレビ、新聞、ネットの情報、それでどのくらいの事がわかる?僕らは、何も分かってないかもしれない、だから、それを知ったかのように書くことだってむろん出来やしない。行くしかない。。僕は、繋がってみたいと思ったし、知りたいと思った。でも、大人の自分が言うのもなんだが、一人じゃ心もとない。これはチームで動く必要がある。だから、気心の知れる仲間たちに声をかけ、自分たちでカンパを出し合い、物資を集め、仕事の合間を縫ってみんなでスケジュールを合わせ、5月6日7日8日と東北キャラバンのスケジュールを組んだ。その報告として、これを書いておくことにする。

5月6日(金)、とにかく積めるだけの荷物、乗せられるだけの人数を2台(キャンピングカーとバン)に詰め込み、深夜に東北へ向けて出発。メンバーは10人、言いだしっぺの自分、最初に声をかけたのは映像の仕事でパートナーとして毎度支えてくれてる弓田一徳、そして同じく映像クリエイターの伊藤ただし、砂押悠子、悠子はグリーンバード歌舞伎町チームのリーダー。同じく、GB仲間であり悠子の親友でもある柿沼真衣。出張ゴールデン街を被災地で、というアイディアに賛同してくれた北村菜帆は、僕の行きつけでもある新宿ゴールデン街「ビアンカ」オーナーママ。酒の事ならまかせてと心強い。自分のクライアントの一つでもあり東京工芸大学でデザイン学部准教授の笠尾敦司先生、先生のアシスタントで東京工芸大大学院の宮沢北斗、二人は「むすびめくん」というコミュニティアートのプロジェクトとして参加。同じ高校の後輩でもあり、歌舞伎町の研究で数年来の信頼関係の東京大学社会学部大学院博士課程の武岡暢、そして最後の最後で滑り込み参加になった杉山文野、彼は言わずもがな、未来の歌舞伎町のリーダー。新宿の気心知れた仲間たちとともに~車中泊、48時間の東北キャラバンスタート。

5月7日(土)、朝、まず僕らは宮城県登米町にある南三陸などからの被災者が約200人避難している登米公民館へ入った。到着したのは朝9時過ぎ、実は、別の新宿から行っている炊き出しチーム(アクアキューブというネイルサロンなどをやっている会社の阿部さんがリーダーを務めた7人チーム)があり、ひとまず炊き出しのお手伝いがてら登米入りを最初の入り口とした。阿部さんチームがお昼に讃岐うどんの炊き出しを行うということで、リクエストのあった卵や調味料の差し入れをし、数名は炊き出しお手伝い、そして、僕ら独自のプランとしては、この避難所にいる子供たち約12名にむけて、子供向けの映画上映会を開催することにしていた。本隊車輌は機材などを載せているため登米に留まり、もう一台は自由に動ける体制なので、4名(文野・悠子・真衣・菜帆)は南三陸へ向かい、物資を運ぶ。登米に残ったチームは午後、炊き出し終了後に映画上映会を開始。また、「むすびめんくん」というコミュニケーション・アートの活動をしている笠尾・宮沢2名は、避難所の廊下に展示スペースを借り、被災者の人たちに「むすびめくん」を渡して作品などを作ってもらっていた。

炊き出し手​伝い、む​すびめくん、こども向け映画上映​会実施後、南三陸から戻った悠子・真衣らが子供たちにおかし・ジ​ュースなどを配った。

当初、日没目安で登米に留まる予定だったが、この後、石巻市渡波地区に悠子がアポイントを取っていて、石巻への道が混むかもしれないということで、南三陸へ行っていたチームも戻ったところで、登米を16時に撤収、チーム全員で石巻へ向かった。

石巻市渡波地区、石巻漁港の直近のこの地域は、津波の被害をもろに受け、地盤沈下のため、満潮時には水もでる。多くの家屋が倒壊し、がれきの除去もまだまだ進んでいない中で、かろうじて2階が残ったところでは、人が暮らしている家もある。震災から2カ月、しかし水も電気もほとんんど届いていない。石巻市渡波の方とは、メンバーの悠子が「ふんばろう東日本」というサイトで見つけて繋がった亀山さん宅。ぼくらが、物資・お菓子などを持っていくことを伝えると「お酒もな~」みたいな話から、じゃ、ここで出張・新宿ゴールデン街をやろうという話になり、亀山さんも近隣の自宅避難者の家族らに声をかけてくれて約20人の人たちが集まった。5月7日、宮城県石​巻市渡波地区にて。被​災した民家の家の前を​借り、まずは物資​を配る真衣、悠子、文​野。被災した近所の工場経営のおじいちゃん、娘、孫​(來愛と書いてクレア​ちゃんというそうです​)、友人たちも。くれあちゃん、ママ、友人たち、悠子や文野・真衣とほとんど同い年ということで意気投合も。

來愛(くれあ)ちゃん、保育園にいると​きに地震が来て、津波​が来るからと会社​のおじいちゃんが迎え​に行ったそうです。「​保護者が来るのを待っ​てから」という保育所​の制止を振り切り、子​供たち全員をトラック​に乗せて避難、そして​助かったのだとか。おじいちゃん「ウチも大型トラック12台も流されちゃってさ~。」

石巻市渡波地区で日没。あたりは真っ暗に。いよいよ、津波で流され枠組みしか残っていない民家の1Fを借りて、「出張・新宿ゴールデン街、ビアンカ@石巻渡波」スタート。

メンバーの北村菜帆(写真右)は、新宿ゴールデン街のバー「ビアンカ」のオーナーママ。店の売りはハイボールなので、もちろんサントリーの角も炭酸も貫目の氷も用意していったが、おそらく日本酒のほうが人気があるだろうという予想が的中、人んちで「宴」も、一升瓶が軽く空いていく、石巻の夜でした。亀山さん「家がこんなじゃなかったら、皆さんに泊ってもらいたい。。」帰り際、酔いもあってか、別れ惜しさがこみあげ、〆るに〆れぬ夜でした。自分は実際のところ、バックヤードの一番後ろ、フロントは女子組がやってくれたので、東北の人たちとの接点は圧倒的に彼女たちのが多い。「最前列」で走り続けた悠子のTLには、多分一番多くのことを感じたであろう彼女の深い想いが込められてる。

石巻市渡波地区、亀山さんと一番仲良しになった悠子のTLより

  • 奥様を亡くしたおとうさん、行きつけのバーとマスターを亡くしたおとうさん、支えるたくましいおかあさん達、まだ水も電気もない場所で生活している。
  • 何もなくなった自宅にみなが集まってお酒を飲むなんて、前に戻ったみたいだと、もう二度とないと思ってたって。
  • 飲み会をしている時、おかあさんがおとうさんに新宿のスナックが来たみたいでよかったなぁと笑ってくれました。新宿のおねえちゃんたちが来たよと。そんなでよかったらいくらでもお酌するしおしゃべりする。
  • こんなに楽しいからいま地震がきて死んでもいいと言ったり、もう壊れてるからぶつけてもいいとか、初デートみたいに私達が来るのを待ってたとか、水がないからアル中になろうとか、ユーモアがフル作動してた。

5月8日(日)、朝まで車中泊、メンバーも少し眠れたようでした。そして、朝、車2台は福島県南相馬行きと、宮城に留まり、昨夜の石巻、そして女川に向かうチームとに分かれて別行動をすることに。石巻・女川チームは杉山文野・砂押悠子・柿沼真衣の3人、物資を持って、石巻・女川の各所で、あたかも行商のように荷物を露店で開き、そこに集まってきた人たちに配布をしたとのこと。

石巻・女川に向かったチーム、悠子のTLより

  • 一日お弁当ひとつふたつ、物資も取りに行けない、配られない、水電気ないひとたちが半壊の2階に住んでいるか昼だけ家の片付けに戻るそう。
  • 牡蠣の工場で地震にあってから津波で逃げて長靴まえかけ、今もそのままの格好しかないのよと笑うおかあさん。
  • 地震直後なにも情報がない中、東京の親戚から津波が来るらしいから逃げろとメールが来て助かったひと、逃げたので津波に遭遇してしまったひと。運だよとおとうさんが笑うんだ。
  • ぼこぼこの道路、瓦礫の住宅街の交通整理のおじさんも着の身着のままだと、女ものでもなんでもいいとTシャツを持っていった。

さて、福島県南相馬市。我々が向かった場所は、南相馬市で50~80名の避難者が暮らす石神第一小学校の避難所。

福島原発から31km、ガイガーカウンターによると0.68MSv/hという値でした。東京の約10倍、年間でここにいれば6mSvに達する。到着後、街を少し歩いた。東北の初夏の日差しは強い。だが、どの家も窓を閉め切り、こんなに晴れているのにどの家も洗濯物は外に干していない。晴天に恵まれ、何もなければ気持ちのいい農村風景なのだが、そんな中で、誰も歩いていない街の景色はやはり異様でもある。

ここでは、2つのことを行った。映写チーム(弓田・伊藤、武岡もここではADに)による映画上映会、そして「むすびめくん」(笠尾・宮沢)。

福島県南相馬市、石神​第一小学校の避難所内​にて、映写チームの映​画上映会。弓田が避難所にてアナ​ウンス。寝ている人もいるから​、ヴォリュームはそん​なに上げられない。

5月8日、福島県南相​馬市、石神第一小学校​の避難所内にて、むす​びめくん、避難所の子​供たちにも作ってもら​おう・・としてるけど​、なかなか難しそう。驚いたのは、ここに子供がまだいるという現実、2歳と4歳だという。

自分と菜帆はここでは体が空いていたので、付近を散策したり、菜帆は学校の敷地で四葉のクローバーを見つけて、被災者の人に渡したりしてたようです。

5月8日16時に南相馬を撤収、帰路につく。本隊の新宿着23時過ぎ、石巻・女川を回ったもう一台の車も一足早く東京着してたようで、無事解散。東京に戻り、またいつもの景色に呑まれていきながら、どうも想いが東北と新宿、行ったり来たりしてしばらく言葉にならない感じだった。被災地は、被災者は、避難所はとか、、どれもひとくくりには出来ない。一人づつ個別の事情を抱え、悲しみも思惑も、願いも希望も、何もかもが一人一人違う。当たり前だけど、そんな当たり前のことを今更気づいた。避難所の喫煙スペースでタバコを吸いながら、時折やってくる被災者の人といろんな話もした。離れた自分の住んでいた街への想いだって、きれいごとだけじゃない、震災前からもともと抱えたいろんな問題が、むしろこの震災をきっかけに表面化してきている感じもする。全員が立ち上がりたいわけでもないかもしれない。諦めたい、そんな人もいるだろうし、そうせざるを得ない人たちがいるのもなんとなくわかる。

登米の避難所には、必要最低限という品々が大量にある。「石鹸は2年分位あるんじゃないか。」そんな声も聞かれた。でも、欲しいものは、実は、必要最低限なものの中には含まれていなかったりもする。例えば、化粧品、女性が綺麗でいられればどれだけ元気や周囲に光を与えるか。しかし、そういったものはない。登米も、それから南相馬も、逐次、近くの大型ショッピングモールからのシャトルバスが往復しているにも関らず、乗っている人はほとんどいない。それが何を意味するか、想像に難くない。お金がないんです。一方、避難所の中には、そこから通勤している人もいる。それが尚更、仕事のない人には焦りを与える。一人ひとりに、少なくとも「立ち上がれるだけ」のお金でも届けば、少しは変わってくるのだろうけど、その立ち上がるためのお金は、多分、10万や20万のお金ではない。そこは、どうしたって、政府じゃなくちゃどうにもできない。避難所という場所は、こう言ったら語弊があるかもしれないが、ある種の末期患者が集まった病院の空気に近い。ここにいたら、人間が駄目になっていく、そんな感じがした。「じゃ、なぜ、そこに留まるのか?」と問いかけてみた。「それは。。。」と口ごもるのも無理もない。もらえるものをもらえるのかもらえないのか、はっきりしない中で、蛇の生殺し状態。もしかしたら、支援の金額や保証の額は最重要ではないのかもしれない。やはり、「これで終わり」というときが来れば、どうあがこうが、立ち上がるしかない、もちろん支援は厚い方がいいだろうが、それでも「支援の終わり」、そういう状態を早く作ることが重要な気がした。何が一番大事か、つまり、一刻も早く、否が応でも「必要」と思われることが決まっていくことなのだろう。「公平」「正確」さは、今、この状況において、むしろ邪魔なのではないか。とりあえず、許容できる「不正確さ」「不平等」を内包したままでいいから、「答え」を出すべきなのではないか。そう思うと、政府の対応は余りに遅い、遅すぎる。震災からちょうど二カ月、人として「心」を保つには、あるいは、心がすでに折れてしまっていたとしても、それをなにかの支援で治しうるとしたら、その「時」は、もう、そう長くない、そんな気がした。

一方、支援物資は届かない、家に水も電気もない、にしても半壊家屋で暮らしている人たちのほうが、避難所の人たちに比べて、まだなんとか元気を感じた。実際のところ、支援物資は避難所に優先的に届く。半壊家屋に今も住んでいる人たちも、物資を取りに避難所に足を運ぶ。だが、避難所で暮らしている人たちの手前、あれが欲しいこれが欲しいとは言えないという。「家が残っている」ことが、全てを失った人たちに比べれば・・・という遠慮深さからくるのだろうが、そこが日本人らしいとも思う。挙句、避難所から配られた食料は賞味期限切れでくさりかけていた、なんてことも。だがら、彼らのところに届く物資は圧倒的に足りない。それでもなお、自宅にいる人たちのほうが、元気に見えるのはなぜか。プライバシーがあること、自分の足で、あるいは何かしら自分たちまたはご近所でやりくりながら、なんとか生きつないでいることが、辛くとも、ある意味「人」としての心を保たせているのかもしれない。あくまで比較の上でだが、自分には、今の「避難所」という形は、絶対に早く「終わり」が来ないといけないと思わされた。「避難所」は、今はやむを得ず必要な人たちがいるとしても、あの場所は、今はまだあるかもしれない「立ち上がれる」心を奪う。

きっちりとした「ボランティア」活動をすべき、と思う人たちから見れば、僕らの計画はグタグタで行き当たりばったりで、納得いかない人たちもいるかもしれない。いや、僕らだって、ちょっと気持ちが前のめりになれば、すぐに「デキルカギリ」を越えてしまいそうな衝動にかられる。だから、チームのまとめ役側には、その前のめり感を抑える役割も大事だと思っている。避難所でできること、被災地のガレキの中に佇む半壊家屋に住んでいる人たち、この両者のニーズは全く異なることも知った。ただ、そうあってほしくないとは思いつつも、先はまだ長い。暑い夏は目の前、その時この場所は、人が生きるに耐えうる場所なのかどうかとか。僕らも、いろいろ気づいてしまった以上、これを一回で終わらせたら、意味がないとは思わないが、何か余りにももったいないと思っている。今回僕らは混成でいろんなツールをもって10人という人数で東北に入った。それは、入口を見つけるのに、確かに便利ではあった。だが、もし何かしたいと思う人がいるなら、心があるなら、それがたとえ自分自身の何かのためであろうとも、1人でも2人でも、行けば出来ることは沢山ある。ゴールデンウィークに大量のボランティアが入った分、むしろニーズが掘り起こされ、今、ニーズだけが残った状態だという話も聞いた。津波の直接被災地から10~15kmも離れれば、必ずどこかに、健在な街が、宿泊施設が、ガソリンスタンドも、ショッピングモールも、深夜までやっているスーパー銭湯もある。元気な体と少々の自分の生活費を持って行きさえすれば、どうにかなるはずです。

ひとまず、ですが、映写チームとして、また作品選択から運転、弓田・ただし君、物資集めから石巻に繋げてくれた悠子、出張ゴールデン街やってくれたり化粧品サンプルを集めてくれた菜帆、むすびめくんの東京工芸大・笠尾先生と宮沢、いろんなところを補完してくれた東京大学大学院社会学部の武岡。すべりこみで合流できた文野。真衣、時々荒みそうな心に柔らかさを与えてくれたね。来てくれて嬉しかった。みんなに、ありがとう。何より、オレらの思いつきを受け入れてくれた、東北の皆さんにありがとうございました。

登米でボクと長々と話してくれた43歳の彼も、自分らが登米を離れるとき、喫煙所のほうから何かを訴えるように僕らを見つめていたことに気づいていた。石巻・渡波のおじいちゃんおばあちゃんたち、帰り際の握手に込められた力の強さ、「え!」ってびっくりするほど強く握りしめられたあの感触が、今も手に残る。現場を去る時の、あの後ろ髪を引かれる想い・・・僕らは僕らなりに「心」を届けに行ったつもりだったのに、「心」をまだ、持って帰ってきてしまっている。だがら、そう、また会いに行かなくちゃ。

2011/5/7-8 東北キャラバン(登米​・石巻・南相馬)アルバムより​。5月8日夜の宮城県​石巻市渡波地区にて急遽、悠子がコンタク​トをとってくれたおじ​いちゃんの家、津波で​1Fは流され2Fで暮​らしてるそうですが、​電気も届いたばっかり​の1Fを使って「出張​・新宿ゴールデン街ビ​アンカ@石巻渡波」。地震の時は保育園にいたとかのくれあ(來愛)ちゃん​。おじいちゃんが津波が来るからって、会社のトラックで保育園に駆けつけ、「保護者がくるまで待ってください。」という制止を振り切り、來愛ちゃんと保育園の子供全員をトラックに乗せて助かったそうだ。「うちの子はちょっと​ツンとしてて高ピーな​とこが。」「そりゃそ​うでしょ。なんて言っ​たって名前が、『あい​に来い!』だもんね。​」

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